「市民権の重層化と帰化行政」
(重国籍の容認について)

「市民権の重層化と帰化行政」という論文を国立民族学博物館地域研究企画交流センター『地域研究』6巻2号(2004年11月)平凡社、49〜79頁に発表しました。その一部を以下に貼り付けます。

(重国籍の容認について)、個別に各国の展開をみてみると、イギリス政府は、伝統的に重国籍に無関心な立場をとっている。第1に、1608年のカルヴィン事件以後[1]、大英帝国に生まれた者がイギリス臣民となる生地主義のもと、個人は君主への忠誠(allegiance)から平等な権利を有するとされた。1870年の帰化法により国籍の離脱が定められるまでは、君主への忠誠は永久的なものとされたので、コモン・ローと忠誠の伝統から重国籍が認められた。第2に、1870年から1948年に国籍法が定められるまでは、外国に帰化した者は、自ら明示的に放棄すればイギリスの国籍を失うが、そうでない場合は、実務上、イギリス国籍を保持しているものと扱われた。第3に、1948年の国籍法以後、上記の実務が明文化され(19条)、1981年の現行の国籍法により、生地主義は親が国民と永住者の場合に限定されたものの、イギリスに帰化する外国人の場合も、他国に帰化するイギリス国民の場合も、国籍放棄は義務づけられることなく、重国籍が容認されている(Hansen 2001:74-82; Hansen 2002: 179-185)。

アメリカでは、憲法修正14条を定めた1868年以来、アメリカで生まれるか、帰化し、アメリカの管轄権に服する者は、アメリカ市民である。1868年の法律で「国籍の離脱がすべての者の自然かつ固有の権利」である旨を宣言し、1907年の国籍離脱法および1940年の国籍法により、他国への帰化、他国への忠誠の宣誓、他国の選挙への参加などの理由に基づく市民権の喪失の手続を定めていた。しかし、連邦最高裁は、1967年のAfroyim v.Rusk事件で[2]、アメリカ国民が他国の選挙に参加したことによるアメリカの市民権の剥奪を違憲とし、最終的には、1980年のVance v Terrazas事件により[3]、他国の国籍証明書の発行が他国への忠誠を意味するかどうかが争われ、アメリカ市民権を放棄する自発的な意思が証明されないかぎり、重国籍を容認する判例が確立した。今日、1986年に改正された移民国籍法349条により、アメリカの市民権を放棄する自発的な意図をもって他国に帰化などしないかぎり、アメリカの市民権を失うことはない。また、同法377条により、外国人がアメリカに帰化する際に出身国への忠誠を放棄する宣誓をアメリカ自体は課しているが、この忠誠の放棄を国籍放棄の意思表明とみなさない出身国の場合は、重国籍が認められるのである(Weissbrodt 1998: 329, 381-391; 高佐 2003:247-52; Aleinikoff 2000: 139, 147-150)。

他方、アメリカに多くの移民を送り出しているラテンアメリカ諸国では、1990年代以前は、ウルグアイ、パナマ、ペルー、エルサルバドルだけにすぎなかったが、1990年代に、コロンビア、ドミニカ、エクアドル、コスタリカ、ブラジル、メキシコとつぎつぎと重国籍を容認するようになり、これらの国々の出身者のアメリカでの帰化率は上がっている。(Jones-Correa 2003: 306,323)。とりわけ、1998年から帰化の際の従来の国籍の保持と以前の帰化により失った国籍の回復が認められるメキシコ人の場合、500万人以上がアメリカで重国籍となる可能性があるといわれる(Spiro 2002: 22; Ramirez 2000:325, 331)。

カナダでは、1977年が転機である。1946年の国籍法は、カナダに帰化した者が、従来の国籍を放棄する旨を定めていなかった。しかし、カナダ国民が他国の国籍を自発的に取得した場合は、国籍を喪失した。1977年以降、重国籍が全面的に認められるようになった(Galloway 2000: 99-101)。

オーストラリアでは、1917年法により、オーストラリアでイギリス臣民になるには、従来の忠誠の放棄を要件とすることを定めた。戦時下のこうした警戒は、1921年法では取り除かれたが、行政実務の要件としてはその後も残った。もっとも、従来の忠誠の放棄は、従来の国籍の放棄を意味する場合も、意味しない場合もあって、帰化者の出身国によってまちまちである。1966年からは、女王への忠誠の宣誓の中にこれが組み入れられたが、1986年からは従来の忠誠の放棄は削除された(Jordens1997: 178-180)。したがって、在住外国人の帰化に際して従来の国籍放棄の規定はない。しかし、在外オーストラリア人が他国に帰化した場合のオーストラリア国籍の喪失を1948年の国籍法は定めており(17条)、この点の制限があった。しかし、2002年にはこの制限もなくし、全面的に重国籍を認めた。

フランスでは、1973年が転機である。1804年の民法は父系血統主義を採用し(10条)、帰化などで外国への忠誠を示す場合はフランス国籍を失うため(12条)、原則として重国籍を認めなかった。しかし、フランス生まれで成人になった外国人の子ども(9条)、フランス人の妻である外国人(12条)、元フランス人で国籍を回復した者(18条および19条2項)には、重国籍が認められる余地があった。また、それ以前の君主制下の生地主義や1851年からの2世代生地主義の伝統もあって、重国籍には無関心な点もあった。1962年に独立したアルジェリア人は、フランスとの二重国籍が認められた。1973年からは、父母両系の血統主義を採用し、国際結婚の配偶者や子どもの重国籍やフランスに帰化した者の重国籍を容認し、欧州評議会による1963年の重国籍削減協定の締約国でないかぎり、自発的に他国の国籍を取得しても、フランス国籍を維持できるようになった(de la Pradelle 2002: 197-204)。また、1995年に欧州評議会の重国籍削減協定の選択議定書を批准し、締約国であるイタリアやオランダに対する重国籍削減の義務はなくなった。

ドイツでは、国籍法が1999年に改正され、2000年からは永住者の子どもは、二重国籍となり、18歳から23歳のあいだに選択する義務を有するが、外国の国籍放棄が不可能、もしくは期待できないとき、または外国人法87条所定の重国籍が容認される場合には、重国籍の維持が認められる例外が定められている(国籍法29条3項・4項)。また、権利帰化に必要な居住要件を15年から8年に短縮した。帰化の場合に従来の国籍を放棄する規定もあるが(国籍法9条、外国人法85条)、以前から、国際結婚で生まれた子どもや、民族的帰還者とその家族、出身国での国籍喪失が不可または過度な負担を強いられる場合の重国籍は認められていた。今回の改正により(Hailbronner and Renner 2001: 694-718; 1142-1148)、

  1. 相手国の法律に国籍放棄の規定がない場合、
  2. 相手国が国籍放棄を通常拒絶している場合、
  3. 相手国が不合理な理由により国籍放棄を拒絶したり、不当な条件を付した場合(すなわち、国籍放棄の手数料が平均月収より多く、2500マルクを超える場合および出身国での兵役の履行を条件とする場合)[4]、
  4. 高齢者で国籍離脱が困難であり、帰化の拒絶が過酷な場合(すなわち、60歳以上で、健康を害していたり、ドイツの家族はみなドイツ国籍をもっていたり、15歳のときからずっとドイツに住んでいたりする場合)[5]、
  5. 国籍放棄が当人にとって経済上または財産上の相当な不利益となる場合(すなわち、平均年収より多く、2万マルク以上の場合など)[6]、
  6. 難民等の場合に、重国籍が容認される旨の規定を定めている(外国人法87条1項)。
  7. EU市民が帰化する場合は、相互主義により、相手国が重国籍を認めていれば、重国籍を容認する規定も定められた(外国人法87条2項)。いわば、EU市民に対し、帰化に対する特権を認めた(Hokema 2002: 162)。

こうした幅広い例外のため、近年の行政実務においては、ドイツにおける帰化者の3分の2は、重国籍が容認されるという原則と例外の逆転現象が起きている(Kreuzer 2003: 348)。改正以前のドイツにおける重国籍者は、少なくとも220万人(人口の2,7%)であり、その内訳は、民族的帰還者の場合が130-140万人、国際結婚による子どもの場合が70万人、移民の2世などで例外的に認められた者が23万人と推計されているにすぎなかった(Munz 2002: 18, 30)。

そこで、2001年に刊行された比較研究では、二重国籍をめぐる各国の状況は、自由な体制(イギリス、カナダ、フランス)、寛容な体制(アメリカ、オーストラリア、ドイツ)、制限的な体制(日本)の3通りに分類されている(Aleinikoff andKlusmeyer 2001: 76-77)。しかし、その後も重国籍の容認のための法改正がなされており、オーストラリアでは、2002年に在外オーストラリア人が別の国の国籍を取得した場合の国籍喪失規定(17条)を削除し、全面的に重国籍を認める法改正をした(DIMA2002)。したがって、今日では自由な体制に入るといえよう。

また、スウェーデンでは、2001年に重国籍を全面的に認める国籍法改正をして、自由な体制の仲間入りをした。その背景には、人の国際移動と重層的な国のつながりが増大し、すでに多くの重国籍者が存在していても実際には何ら深刻な問題は生じておらず、多文化社会としてのスウェーデンにおける新たなスウェーデン人らしさのあり方が問われ、冷戦後の重国籍に寛容な国際傾向に沿った国籍法の現代化が必要とされた点が指摘されている。また、市民権が国籍よりも居住に基づく要素が大きくなるにつれ、国籍は権利の源泉というよりも、アイデンティティの源泉であるとの見方も大きくなり、重国籍は、移民が社会的に排除されている問題を解消し、(多文化主義的な)統合を実現する上で有益であるとの見方も強まった。さらに、二重の兵役、外交上の保護の困難、二重投票、忠誠の衝突といった重国籍の伴う国家の不利益と従来考えられてきた問題は、実際には非常に限られたものである一方、旅行、居住、就労、社会扶助、財産権などに関する移民にとっての個人の利益が大きいとの見方がスウェーデンでは広まった(Gustafson 2002 )。


[1] Calvin’s Case, 77 Eng. Rep. 377 (1608).
  カルヴィン事件については、(柳井2004:38-49).
[2] Afroyim v. Rusk, 387 U.S. 253 (1967).
[3] Vance v Terrazas, 444 U.S. 252 (1980).
[4] 国籍法に関する一般行政規則87.1.2.3.2.1および2。
[5] 国籍法に関する一般行政規則87.1.2.4。
[6] 国籍法に関する一般行政規則87.1.2.5.2。


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