安念参考人 御紹介いただきました安念でございます。このような機会を与えていただきまして、まことにありがとうございます。
 外国人の人権につきましては十年ほど前に論文を書いたことがございまして、本日申し上げることも格別この中身と違ったことではございません。よほどお暇でしたら、ぱらぱらとめくっていただきたいと存じます。
 私もある程度論文を書いたつもりでございますが、一貫したものがございまして、それは、中身が一貫しているわけではなくて、私の論文は一貫してだれにも読まれた形跡がないということでございます。この論文も、私の非常にマニアックな二、三の友人が読んだということの裏はとれておりますけれども、決して学界の権威ある通説などというものでは全然ございませんし、その上、机の上の議論を頭の整理のために整理したという程度のものでございますので、毎日毎日起こるビビッドな事件に対処しておられます先生方の御参考になるかどうかについては大変怪しいと思っておりますが、そういうものとしてお聞きをいただければ幸いでございます。
 日本国憲法については、先生方の議論も含めて実にさまざまな議論がなされております。ただ、私の立場から申しますと、日本国憲法の特色は、格別特色がないということであろうと思っております。つまりそれは、先進国の憲法であればどこの国の憲法にも書いてあるようなことを、どこの国の憲法にも書いてあるような言葉で書いてあるというだけのことでございます。それはほかの国の憲法も大体同じなんですね。先進国であれば皆同じような憲法を持っております。つまり、幾つかの自由を保障いたしまして、また一方では民主的な政治機構の根幹部分を規定しているというものでございます。
 どこの国の憲法も大体先進国であれば同じであるというのはなぜかといえば、それは、憲法の役割と申しましょうか、守備範囲というのは実は非常に限定されているからだと思います。つまりそれは、国家権力を制限して国民の自由を保障するという、この一点に結局尽きるわけでございまして、そうだといたしますと、そのための法というものがそれほどバラエティーを持たないというのは、これは一応当然のことではなかろうかと存じます。
 恐らく、日本国憲法の特色は、憲法の条文に特色があったのではなくて、議論のされ方に特色があった。つまり、一方では憲法がすごく好きという人がおる。一方ではすごく嫌いという人がいる。そういうものとして議論され、時には、言葉は悪いかもしれませんが、消費されてきた、コンシュームされてきた、そういうところに日本国憲法の特色があるというふうに存じます。
 ところで、憲法の役割は、結局、国家権力を制限して国民の自由を保障することだというふうに申しました。恐らく、このことはそう大きな異論はないだろうと存じます。
 問題は、どんなものにも、表玄関と申しましょうか、正面玄関と勝手口があるということでございます。つまり、正面玄関はきれいに掃き清めて水を打ってある。一方、勝手口の方に回りますと、ごみ箱があって、空き瓶が置いてある。これはどんなものにも大体共通するだろうと思うんです。憲法も、そう言ってしまえばそうです。
 憲法の正面玄関はすなわち自由の保障でございますが、その理念は実に気高いものでございます。日本人の感覚からいたしますと、非常に突拍子もないような概念に聞こえるんですが、自由の保障という概念の背景には、少なくとも欧米の知的な伝統から申します限りは、自然法という発想がございます。その自然法というのは、神様が人間に与えた法でございますから、人間の種類、どういう人間かにはかかわりなく、人間が人間である限りにおいてはすべての人が享受できる、そういう自由、権利を与えたのだ、こういうふうに建前としては掲げるわけでございます。これが正面玄関でございます。これは大変美しいもの。
 ただ、これは、実はという話が勝手口の方にございまして、どういうことかと申しますと、すべての人に文字どおり等し並みに権利を保障するというのが理念であっても、現実にはそうはいかないという問題が歴史的には多々あったということでございます。つまり、実は同じ人間なんだけれども、その中には、ありていに言えば二等市民と申しましょうか、そういう存在を実は憲法も勝手口の方では認めてきたわけでございます。
 その典型例はもちろん奴隷でございます。そもそも人間じゃない、財産権の対象として売買される。生物学的にはそれは人間だということはだれも認めているわけですが、しかし、いわば真っ当な市民とは同じ権利を認めることができない。これはアメリカの南北戦争が終わるまで西欧にも存在していたわけでございます。つまり、一八六〇年代まで存在しておりました。
 もう一つは女性でございまして、女性に対する差別が少なくとも法的なレベルでほぼ撤廃されるのは、先進国でも第二次大戦後のことでございます。
 もう一つは植民地でございまして、これも第二次大戦が終わるまで、終わってからもかなりの間でございますが、欧米諸国はアジアやアフリカに相当の植民地を持っておりまして、植民地の人間に対しては、本国の人間とは違うんだと、平等の扱いをしてこなかったというのは、これは事実でございます。
 それはいろいろなテクニックを用いて正当化してきたのでございますが、しかし、理屈のレベルでは、同じ人間なのにどうして違いがあるのかということを証明するのは、結局無理だったんだと思います。歴史の流れもありましょう、それから人間の知的な発達もありましょうが。いずれにいたしましても、こうした裏玄関、勝手口のさまざまな問題は、第二次大戦の終結あるいはそれからしばらくの間、一応、法のレベルでは清算されたというふうに言ってよろしかろうかと存じます。
 しかし、最後まである意味で残っている大規模な問題は、外国人の問題でございます。外国人にも憲法が保障している権利が保障されるのかというのは、これは現代まで残っている憲法のいわば鬼門と申しましょうか、最もタッチーな痛い部分でございます。
 建前から申せば、自国民であろうが外国人であろうが、すべて人なんですから、人である以上、すべての人が例えば表現の自由、例えば財産権、例えば参政権というものを持ってよいはずのものでございます。しかし、この理屈を実地に適用することはできないということは、これは少なくとも先進国である以上ははっきりしております。もし外国人にも自国民と同じ権利を認める、文字どおりの内外人平等を認めるということは、移民を無制限に認めるということでございますから、自国民にとっては破壊的な影響を及ぼすということは、これははっきりしております。
 したがって、どこの国でも、憲法に明文の規定のあるなしにかかわらず、外国人の憲法上の権利の享有は制限されているのだというふうに学説や判例がずっと唱えてまいりました。
 しかし、そうなんだけれども、では、なぜ制限されるのか、外国人は自国民とはなぜ違う扱いを受けるのかということを理論的に証明することは大変難しいことでございまして、それは、憲法の人権の考え方が、自然法という言葉を使うかどうかはともかくといたしまして、すべての人間に、人間であるというただそれだけの理由で認められるとすれば、これはどうしても突破することのできない大変に難しい問題となって残るわけでございます。これは、今日においても、すべての先進国の憲法が抱えている問題でございます。日本だけではございません、アメリカでもイギリスでもドイツでもフランスでも、皆抱えている問題だ。そして、いまだに解決はできていない。きっちりと、非常にすっきりとした理論的な解決はできていなくて、今後もきっとできないだろうと私は思います。
 さて、外国人が憲法上の権利をどこまで享有できるのかという問題についての判例、学説の態度は、伝統的に驚くほど一致しております。それはこうでございます。
 憲法上の権利は、日本国民にしか認められないもの、例えば参政権だというのですが、そうしたものを除いては、できる限り外国人にも認めるべきだと言ってまいりました。例えば政治活動の自由、これは表現の自由の中に含まれるものでございましょうが、政治活動の自由もまた外国人にも認められるべきだというふうに主張してまいったのでございます。この点について、こうした抽象的なフォーミュラとして見ますと、判例と学説の間に対立はなかったというふうに言ってよろしかろうかと思います。
 問題は、実地の、具体的な問題への適用のレベルでございます。このような一般的な形式、フォーミュラの真価が試されましたのが、昭和五十三年、一九七八年のマクリーン事件最高裁判決と言われております、この分野では最も有名な判決でございます。
 この事件は、アメリカ合衆国市民であるアラン・マクリーンという人物が原告となりましたのでマクリーン事件と言うのでございますが、彼は、日本に、英語学校の教師として、在留期間一年で入国いたしました。その間、当時ベトナム戦争のころでございましたので、外国人ベ平連という、今となっては懐かしい名前でございますが、そこに所属をいたしまして、平和的デモに随行するというような反戦活動をいたしました。
 さて、一年の在留期間が切れそうになりまして、まだ日本に在留したいということで、当局に、厳密に申せばもちろん法務大臣にでございますが、一年間の在留期間の更新の申請をいたしましたところ、法務大臣はそれを不許可といたしました。その理由は、日米関係を損なうような活動に日本国内で従事した、したがって、日本国政府にとっては好ましくない人物であるというので、これ以上在留を認めるわけにはいかない、ただ、引っ越しの時間は必要であろうから若干の猶予は認めるということで、一年間の在留期間の更新の許可の申請に対してはこれを不許可とする、このような行政処分をしたのでございます。マクリーン氏がその行政処分の取り消しを求めたというのが、この訴訟でございます。
 途中の経過をばっさりと抜いて、最高裁に行ってしまいますと、結局、最高裁は、その処分は適法であると申しました。
 その理由づけでございますが、最高裁の判決の理由づけは大きく二つに分かれておりまして、まず第一に、それまでの判例や学説に大いに敬意を表しまして、外国人にもできるだけ基本的人権の享有を認めるべきだと申しました。もっとも、日本人でしか行使できないような権利は別だがという留保をいたしました。
 では、マクリーン氏が国内で行った外国人ベ平連の平和的デモに随行する行為はどうであったかと申しますと、最高裁は、ここが大変注目すべきことですが、そのような活動は外国人にも認められる政治的自由の範囲内だと言ったのです。その範囲を超えているからおまえは追い出されても仕方がない、こういうふうには言っておりませんでした。そうなりますと、どうもマクリーン氏が勝つような感じがするのですが、そうではありませんでした。
 そこからが第二番目でございまして、最高裁は、確かに外国人にも平和的な政治活動に従事する自由は憲法上保障されているのだが、そうした権利は在留資格制度の枠内でしか認められないのだという言い方をしております。
 在留資格制度というのは、先生方御承知のように、今日では、出入国管理及び難民認定法によってつくられている制度でございますが、では、最高裁はこの在留資格制度というものをどのように理解しているのかと申しますと、こうでございます。法律の規定している在留資格制度によれば、在留期間の更新を認めるか認めないかは法務大臣の自由な裁量に任されているのだ、このように申しました。自由な裁量に任されているというのは、つまりこういうことです。認めるも認めないも、それはどちらでもよい、仮に認めないとして、どのような理由で認めなくてもよい、こういうことでございます。
 つまり、日本国内で、日米関係にとって日本政府は好ましくないと思うような活動をしたということを理由として、在留資格の更新を認めなくてもよいのだ、それは法律が認めている裁量権の行使の範囲内の話なのだ、このように言ったのでございます。
 考えてみますと、この判決のつくり方は、やや木に竹を接いだというのでしょうか、異質のものを何か無理やり接着剤でつけてしまったような、そういう印象がございます。
 前半部分では、あなたには憲法上の権利として政治活動オーケーよと言いました。しかし後半部分では、その政治活動の自由も在留資格制度という枠内でしか認められていない、その在留資格制度のもとでは、あなたに期間の更新を認めるかどうかは法務大臣の自由な裁量だ、だから、ノーと言ってもそれは自由な裁量の範囲内なんだから、出ていってください、こう言ったわけです。
 この判決の結論を導く上で決定的な意味を持っているものは、もちろん第二の部分でございます。在留資格制度の枠内でしか憲法上の権利が認められないという部分でございますが、そうだといたしますと、では、最高裁はその在留資格制度というものをどのように理解しているのかということが次に問題となると申しますか、これは最大の問題でございます。
 最高裁の理解によりますと、在留資格制度というのは、憲法の外国人の地位に関する基本的な発想を踏まえてできているものでございます。それはどういう発想かと申しますと、外国人は日本に、この分野では本邦にという言い方をよくするのでございますが、本邦に入国し、在留し、引き続き在留する権利を憲法上は持っていない、そういう考え方に基づいてできている。では、なぜ憲法は外国人に入国その他の権利を認めていないと言えるのかといえば、その理由は、国際慣習法がそうだからだ。
 国際慣習法によれば、国家が外国人を自国内に受け入れるかどうかは、その国家の自由な裁量によってよろしい。つまり、外国人の立場からいえば、外国に入国し、在留する権利はない、これが国際慣習法である。その国際慣習法がある上で、日本国憲法には、その国際慣習法を修正するというような態度を見せた条文がない。とすると、日本国憲法は国際慣習法を受け入れているのである。ということは何を意味するかというと、外国人は、本邦に入国し、在留し、引き続き在留する憲法上の権利はないということでございます。
 さて、憲法上の権利がないということを前提にして在留資格制度ができているといたしますと、入国し、在留し、引き続き在留したいという外国人の希望をかなえるかどうかは、これは日本政府が自由に決めてよいこと、つまりは、立法府がどのように決めてもよろしいわけです。すべて受け入れるという立法をしてもよろしいし、全く受け入れないという立法、つまり鎖国にしてもよろしいし、ある場合には受け入れ、ある場合には受け入れないというルールの仕方にしてもよろしい、そのようにできているのだというのが、最高裁の認識でございます。
 したがって、引き続き在留を求める申請、つまり在留期間の更新の申請については、法務大臣が自由な裁量に基づいて判断すればよろしいのだ、このように言ったのでございます。
 この判決の仕方は、先ほど木に竹を接いだような表現だということを申しましたが、私は、前半部分と後半部分は結局矛盾しているというふうに思います。と申しますのは、憲法上の権利は外国人にもあると言っておきながら、しかし後半部分で、憲法上の権利が在留資格制度の枠内でしか認められないと言っている。ところで、在留資格制度は法律に基づいてできているわけでございます。出入国管理難民認定法という法律に基づいてできている。憲法上の権利が法律の枠内でしか認められていないということは、言いかえますと、憲法上の権利はないということです。
 なぜかと申しますと、その枠組みをつくっている法律をどんどん外国人に厳しくして、憲法上の権利の享有がまるでできない、あるいはほとんどできないような法律をつくってしまえば、これは憲法上の権利を享有していないというのと同じでございますから、そういう状態が許されるというのであれば、そして最高裁はそれを許されると考えていると思いますが、そうであるとすると、結局、外国人には憲法上の権利はないと言っているんだと私は思います。
 この認識は、考えてみますと、恐ろしく薄情なように聞こえますが、頭の整理の問題としては、私はそう言わざるを得ないのではないかと考えております。それはなぜかと申しますと、これは最高裁も言っていることですが、くどい表現を何度も用いて恐縮でございますけれども、外国人には、本邦に入国し、在留し、引き続き在留する憲法上の権利はないからでございます。そして、外国人が本邦に入国する憲法上の権利がないという点については、判例も学説も全く異論はございません。みんながそう言っております。このことを前提といたしますと、外国人には憲法上の権利を享有する資格はないんだと言わざるを得ないのではないかと思われるのです。
 もちろん、そう申しますと、いやいや、そうではなくて、入国、在留の権利はなくても、他の憲法上の権利は享有できるはずではないか、少なくともそういう理屈を組み立てることが可能ではないかという反論は当然あるだろうと思うんです。
 しかし、最高裁も判決の中で示唆しているのですが、私は、その構成は苦しいと思います。と申しますのは、外国人には憲法上本邦に入国する権利がないのだといたしますと、先ほども申しましたように、日本は鎖国をしても憲法には違反しないということでございます。なぜかというと、外国人には日本に入国する憲法上の権利がないんですから、すべての外国人の入国を拒んでも憲法には違反しないわけです。愚かな政策ですよ、これは。全く愚かな政策ですが、憲法には違反しないと言わざるを得ないわけです。もちろん、入国させなくても憲法に違反しないというだけでございますから、入国させても憲法に違反するわけではございません。もちろん入国させてもいいんです。
 しかし、させなくても憲法に違反しないという以上は、入国させるに当たって条件をつけてもいいはずだという発想に自然になると私は思います。最高裁もそういう発想をとっております。つまり、こういうことです。入国は認めてやろう、ただし、これはあなたの憲法上の権利ではありませんよ。さて、その場合に条件がある。それは、あなたは日本国内に入国し、在留してもよろしいが、憲法上の権利は放棄する、あるいはそれを行使しないという条件でだという条件をつけることが許されるはずでございます。そのことは、すなわち外国人には憲法上の権利を享有する地位と申しましょうか、資格がないということを意味しているのではなかろうかと思います。
 このことは、先ほども申しましたように、えらく割り切った、ドライな結論のように聞こえるかもしれませんが、実は、在留資格制度というのは、今申しましたように、外国人には憲法上の権利がないという前提でつくられていると考えませんと説明ができないんでございます。
 外国人の在留資格は、いわゆる活動資格というものについて申しますと、ある特定の領域の活動しかできないという組み立てになっております。日本国民にはこんなことは許されるはずないと思うんですね。例えば、私には研究しかできない、ほかのことを一切やっちゃいけない、そういう人間のカテゴリーをつくることはできないはずです。例えば、先生方について、演説しかすることができない、そんなカテゴリーをつくることは許されないはずです。原則は何をやったっていいはずです。それが、外国人に適用される在留資格制度は逆なんです。ある特定の行為しかできないんです。そして、そのような仕組みが、少なくとも、今まで違憲だと言われたことはございません。
 だとしますと、外国人在留制度というのは、外国人には憲法上の権利を享有する資格はないんだという前提でできているというふうに説明するしかないのではないかと私は思います。したがって、私の考えでは、マクリーン事件の最高裁の判決は正しい結論をとったのではないかというふうに思います。そういたしますと、結局何が残るのかというと、外国人には憲法上の権利はないという、それだけの話でございます。
 この言い方は、恐らく非常に多くの人の反感を買うだろうと思うんですが、私の言いたいことは、外国人は、外国人として入国させてやった以上は、煮て食おうと焼いて食おうと自由だ、いきなり水際で拷問にかけてもいいんだ、そんなことを言いたいわけではもちろんございませんで、結局のところ、外国人の法的地位は法律でつくられるのだからそれでよいではないかという考え方でございます。法律によりさえすれば、私は外国人にどのような権利を認めてもいいと考えております。これはこれでかなりこの世界では過激な考え方なのですが、憲法上の権利はゼロ、しかし法律によって日本人と同じように扱ってもいいというのが私の考えでございます。
 多くの学説は、例えば国務大臣でありますとか、裁判官であるとか、国会議員であるとか、そういった公務員には外国人は就任できないと言っておりますが、私は、これはどうしてなのかよくわかりません。
 私は、公務員というのは基本的には国民のサーバントでございますから、国民にとって役に立つのであれば、外国人であっても日本国民であってもそれはどっちでもいいというふうに考えるべきなのではないかと思っております。それは、法律でそう認めればよろしい。もし働きが悪いのであれば首にすればよろしい、それだけのことではないかと思います。憲法上の権利はゼロであるが、法律によって日本人と全く平等な扱いをしても許されるのではないかというふうに私は考えております。
 私は、憲法上、外国人には人権享有の資格はないと考えます。一つの帰結でございます。それは法律で認めればよろしいではないか、しかもそれは日本人と同じように、いわば制限なく認めてもよろしいのではないかというふうに私は考えております。
 第二点でございますが、外国人に人権がないというその結論のさらに奥にある問題の第二点目は、では、外国人には憲法上の権利を享有する資格がないとして、そうなると、憲法上の権利を享有できるのはだれか、それはもちろん日本国民だ、こういうことになるわけです。では、その日本国民というのは一体何者であるのか。
 先生方も私も日本国民でございますが、日本国民がだれであるのかということについて、憲法は何も語っておりません。ただ、憲法第十条で、日本国民たる資格は、法律でこれを定めると規定しているだけでございまして、それに基づいて、御案内のとおり国籍法という法律がございます。
 私を含めて大多数の日本国民が日本国民であるという理由は、何か実体的な価値に基づいてあるのではございません。日本国に貢献したからではないし、日本語がしゃべれるからではないし、日本の法令に忠誠を誓っているからではないし、日本食を好むからでもないし、とにかくそういう実体的な価値とは何の関係もございませんで、単純に、父親、母親のどちらか一方が日本国民であったという、それだけの話でございます。全く形式的な基準に基づいて日本国民であるかないかが決まっております。
 これは、諸国の例、皆同じことでございまして、国籍の付与に関して一々実体的な関係を審査するなどということはコストがかかってできませんので、出生によってすぱっと割り切るわけでございます。しかし、このすぱっと形式的に割り切るということは、日本国民であるという地位が実はある意味で便宜的なものであるということを物語っております。なぜ私が日本国民でなければならないのか、あるいは日本国民であることが許されるのかということについて、実体的なことは何もないわけです。ただ、生まれたときにおやじが日本国民だ、それだけの話でございます。そうだといたしますと、本来の人権の享有主体、本来人権を享有することができるとされている日本国民という地位もまた、実は憲法上の基礎は大変あやふやだということでございます。
 だといたしますと、ここからは私は政策論として申し上げたいことでございますが、日本国民と外国人との間に非常に大きな差異があるというような立法政策は、フィロソフィーの問題としては望ましくないのではないかというふうに考えております。
 さて、最初の問題へ戻りますと、憲法上の権利の根拠が、人間がただ人間であるというだけのことにあるという原理に立脚いたしますと、自国民と外国人を人権の享有において差別するということの理由づけは大変に難しいものでございます。というか、恐らく成功しないだろうと思います。しかし、同じように扱うことは破滅的な結果を導いてしまう。そこで、何だかんだと理由をつけて、違った扱いをしてもよいというふうに理屈をこねるわけでございます。
 そのこね方の一つが、今私が申しました、昭和五十三年のマクリーン判決が述べている、あるいは示唆しているところでございまして、結局、外国人には憲法上の権利を享有する資格はないのだということでございます。
 しかし、だからといって、繰り返しになりますが、立法政策の問題として、外国人をまさに煮て食おうと焼いて食おうと自由だという扱いをするのは賢明だとは私には到底思われません。ここから先は、まさに国権の最高機関である国会のお仕事であろうと思います。もちろん、これに対しては、憲法を改正して外国人の法的地位を明瞭にせよという御主張はあるいはあるかもしれません。しかし、私は、余りそれは御推奨できる方法ではないと思うのです。
 と申しますのは、憲法というのは、事柄の性質上、非常に抽象的なあるいは一般的な規定の仕方しかできない法典でございまして、そうであるといたしますと、仮に憲法を改正して外国人の地位を決めるといたしましても、さまざまな意見があるわけでございますから、結局のところは、判例、学説が今まで言ってきたように、できるだけ人権を認めましょうといったような書き方しかできないと思うのでございます。
 そうだといたしますと、具体的な問題が起きると、今度は、憲法にはそれだけしか書いてないわけでございますから、裁判所での裁判官の判断ということになります。つまり、憲法にざっくりとした条文を置けば、最終的な判断権者は裁判官でございます。一方、法律で決めれば、最終的な判断権者は国会議員でございます。結局、どっちを信用するかという問題でございます。裁判官を含む官僚を信用するか、国会議員を信用するか、これはつまるところ、物すごく単純化して言えば、試験を通ってきた人間を信用するか、選挙をくぐってきた人間を信用するか、こういう二者択一でございます。
 もちろん、大変な失礼な言い方ですが、どちらも全面的に信用はできないでしょう。しかし、私の趣味を申せば、試験よりは選挙の方がよろしいと私は思っております。これは別に先生方にお世辞を申し上げるつもりで言っているのではありません。選挙は厳しいなと。厳しいなというのは、私は渋谷を通って通いますが、あそこで演説をしておられる先生方を拝見しておりますと、本当にそう思います。私ども学校の教師も、学生が講義をまともに聞かないといって怒るんですが、しかし、私どもは、試験とか単位とかというもので学生をおどすことはできるわけです。しかし、先生方はそうはまいらない。
 渋谷のハチ公を通っている連中というのは、私も含めてですが、先生方の演説を聞かなければならないいかなる義理もございません。そういう人間を振り向かせて話を聞かせる、これは大変な技術でございます。それだけのことができるんだから、やはりメリットがあるんだと、こういう言い方を申しますと大変失礼なことを申し上げているようでございますが、選挙の洗礼を定期的にくぐらなければならないということは大変厳しいことでございまして、意識が有権者と一致する、せざるを得ない、そのことの意義はやはり大きいと思います。
 憲法でざっくりとした規定を置いて裁判官に決めさせるよりも、法律で決めて国会議員に決めていただいた方がよりよい、あるいはより少なく悪いというのが私の結論でございます。
 時間が余りましたが、これで終わらせていただきます。ありがとうございました。(拍手)


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