金子(哲)小委員 社会民主党の金子です。
 私は、まず、きょうの先生のお話を聞きまして、政治の課題、特に外国人の人権ということに関しては政治的な課題が大きいということを感じたわけですけれども、その点でいいますと、日本の場合には、政治が本当にそうした課題にこたえてきたのかという点では、もっと政治の中で外国人の権利を、人権というものを拡大していく方向性というものがつくられていかなければならないんではなかったのかということを実は思うわけです。
 先ほどの話の中でもちょっと出しましたけれども、入管センターなどの状況を見ても、そこに象徴されているように、国家というか政府というか、国の機構そのものが、外国人に対しての権利というか人権というものに対して非常に狭い範囲でやってきたのではないか、そのことが、国民全体に対してやはりそういう影響をもたらしてきているというふうに私は思うわけです。
 私は、例えば、先ほどもお話がありましたけれども、外国人の場合には、日本の場合、一つの特殊な問題もあると思います。先ほども議題になりました在日朝鮮・韓国人と言われる人たちの問題があると思います。
 私は、教育の問題一つとってみても、実は、いわば外国人の人権を本当に確保するといったときに、宗教とか教育ということは重要になってくると思うんです。
 例えば、今、在日朝鮮人の場合には朝鮮人学校がつくられておりますけれども、この学校は各種学校の扱いで、例えば、これまで、ようやく開かれたとはいえ、高校総体にも出れないというような問題があったし、かつては、国体にも出れない、夏の高校野球には一緒にチームを組んで参加をしたけれども、国体に選抜されても国体の中では出れなかった。そして初めて、その人が在日の韓国人であったということがそのことを通じてわかるというようなことまで起きた時代が実はあって、子供たちの形成の中に大きな意味があったと思います。
 そしてまた今、例えば民族的な教育というものを課外の授業でやろうという努力も、実は大阪などでも行われているんですけれども、そういったことに対して、日本の場合には、その補助をしていくというか、積極的な意味を見出しているかというと、残念ながらそこに行っていないんではないかというふうに思うんです。
 そういう意味でいいますと、私は、外国人の人権を考えるときに、本当に、それぞれの、これから、国際社会の中にあって、先ほども言いました民族的なアイデンティティーというものをお互いが尊重し合う、そしてまたそれがつくられていくような、政治の中で、法律の中でそれが可能だとしたら、それをつくらなかった怠慢というのは非常に大きいんではないか。むしろ、それをより積極的にそういう場を広げていくことが重要ではないかというふうに思っております。
 それともう一つは、これは国内の外国人の人権ということでありませんけれども、私、戦後補償の問題を考えてみますと、このことをどう考えていくかという問題は人権にもかかわってくる問題だと思います。
 かつての従軍慰安婦の問題もそうでありますけれども、まさに、これそのものが外国人の人権にもかかわる問題であって、これが日本の場合には、被爆者援護法のときにも、そして日本の戦災者、日本国籍を持つ者もそうですけれども、国家との身分関係があったのかなかったのかということが、例えば軍人軍属であったのか、そういう関係があったのかなかったかということが戦後の補償の問題でも大きな問題になっておりまして、今、同じ被爆者でも、外国に住むからといってこれが補償されないという問題も実はあるわけです。
 これは経済的な問題であるかもわからないけれども、私は、人権の側面から見ても同じような問題として、一人の被爆者をどう政府が救っていくのかという立場でいうと、そんな全体のトータルの中に、日本の戦後のありようの中に、外国人というか外国籍を持つ人たちとの関係というものについて、本当に整理をし、そういう関係にあったのかということを、二十一世紀に向かって、そこはやはり一番大事な視点として考えなければいけないのではないかというふうに思っております。
 以上です。


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